コミュニケーションについての雑感③ 「失敗 ではなく 間違い」と受け止める
昭和→平成→令和という時代の流れでものすごく変わったなと思うことの一つが「間違い」に対する考え方かもしれません。

就労支援施設でのグループワークでも皆さんと考えたことなのですが、「失敗」っていう言葉は「失って敗れる」「敗れて失う」ということになりますよね。得るものが何もないイメージです。だから人間関係でも何でも一度でも失敗したら負け組というレッテルを貼られたような気持ちになってしまう・・・それを物心がついた幼少期から繰り返し繰り返し躾けられているのが現代社会です。

ところが同じように考えられている言葉ですが「間違い」だとどうでしょう。「間(あいだ)が違う」つまりそのことに相対したその距離感といいますか、対応の仕方がちょっと違っていた・・・・だからそれを修整しさえすれば成功するかもしれない、という希望を含んだイメージがあります。

日本には神話の時代から「修理固成」という言葉があします。ごくごく簡単にいえば、実際の生活の中での経験から 「こうしたらこうなった」
と、特に  間違い を通して学んでいくということです。間違えた時こそが、より深く世の中の真実(理 ことわり)を会得していける時だと。

昭和の頃などはよく大人が子ども達に「失敗は成功のもと」と繰り返しいっていたのですが、「失敗」というのは「間違い」ということだったともいえます。間違えた時こそ成功への土台が積み重ねられると。(このことについてはまた別稿でとりあげます)

それが「失敗はダメ」ということばかり言われるようになった。学校でも「失敗させないように配慮している先生」がいい先生と言われるようになった。で、大人の言う通りにしないで失敗をする子は「負け組の烙印」を推されるようになった。

それは人間関係においてもです。「ちょっとしたことで仲間からはかれる」「自分の居場所がなくなる」「いじめられる」「みんなが楽しむためのカモにされる」・・・・・・・・

そんな中ではコミュニケーション能力をあげるための間違いを繰り返しましょう、なんて言われても恐くてできないのも無理はありません。



そのような話はいいからコミュニケーション能力が向上する方法を早く教えて欲しい・・・という方々には、この連載はわけがわからないと思われているかもしれませんね。実際に世の中にはコミュニケーションのスキルアップや、技能検定合格のための講座のようなものがあふれていますから、コミュニケーション能力は会得すべき技術とみなさんが思ってしまうのも無理はないと思います。

ただ、やはり時代がどんなに変わっても、人間の営みである以上、私はコミュニケーションは根本的には「技術・テクニック」ではないと考えています。

職場などでの「人間同士の距離感」については技術というか、ある程度のコツはあると思いますが、それは表面的なやりとりに限ります。ちょっとこみいってくると、そうしたテクニックでは通用しないその場その場の壁がでてくる・・・・これがやっかいです。

コミュニケーションが苦手である原因も人それぞれ、相手も状況も千差万別。それらすべてに通用する特効薬のような「方法・テクニック」などはあり得ないと思いませんか?

厳しい言い方かもですが、やはり最後は自分自身のその場その場の判断で乗り越えなければなりません。そしてそれは実のところ一生の修行みたいなものです。一見、コミュニケーション能力が高いとみえる方々だって、みえない所での積み重ねあってのことでしょうし、やはり「ちょっとまずったかな」という場面は多々あると思います。でもまずったとしても、恐らく相手の様子などをみながら軌道修正をすることを心得ているのかもしれません。

その軌道修正を可能にしているのが、相手や状況をよくみる・感じることです。これなくして本当のコミュニケーション能力の会得もたかまりもありません。そしてこれはやはりナマのやりとりの場数を踏むことが必用不可欠なんですよね・・・・・

でもそれができないから悩んでいる・・・・特にコロナで対面が制約された数年間を通してあらゆる世代が対人に苦手意識やわずらわしさをより強く感じるようになってしまった。

それでもナマのやりとりを回避して、その上でコミュニケーション能力をというのは難しい・・・・このジレンマに悩むわけですけど、それでも日常で他人との関りは大なり小なりしているわけですよね。

それが比較的うまく言った時はそれを学びの一つにすればいい。

そしてうまくいかなかったときにはそれを 失敗 として自分をより否定する材料にするのではなく、 間違い という受け止め方をして、次の工夫をするための糧としてもらえたら、と願っての今回の特集でした。

・・・・って書きながら、自分自身にそう言い聞かせています。